「通俗道徳のせいで差別はなくならない」という件、それは本当か?

知らんけど

はじめに

「日本に差別や人権がなかなか根付かないのは、通俗道徳が原因だ」
ある活動家の主張を、なるほどと思い聞いていました。それはとても論理的で説得力のある主張でした。

しかし、なぜか私の心には響きませんでした。
話はよく理解できるけど、「違う、違う、納得できない」という感覚が残ったのです。

「通俗道徳が差別を再生産する」という主張

その主張はこうです。

日本社会には、「真面目に生きていれば報われる」という通俗道徳があります。
これは一見、いい考え方に思えますが、逆に言えば「報われないのは、あなたが悪いからだ」という目で人を見ることにもつながります。

つまり、社会的に弱い立場にある人を「怠け者だ」「努力が足りない」と切り捨てる空気を生んでしまう。
さらには、「そういう人を助けようとするのは、悪をかばうことだ」とまで考えてしまう。

こうして、人権や差別への感度が育ちにくい社会になってしまっている──というのが、この論の骨子です。

それでも、なぜか違和感が残った理由

論としてはとても筋が通っていました。
でも、なぜか素直にうなずけません。
これがとても気になって、その理由を自分なりに探ってみました。

理性主義の「上から目線」に感じた

通俗道徳にすがって生きてきた人たちはたくさんいます。
「真面目に働けばきっと報われる」と信じることで、自分を奮い立たせてきた人も多いでしょう。

そうした人たちの価値観を、「だから差別はなくならないんだ」とバッサリ否定してしまう語りには、冷たさと傲慢さを感じてしまいます。
その主張が、たとえ正しかったとしても、共感できませんでした。

その通俗道徳を信じている人たちに訴えるのであれば、もっと相手の価値観に寄り添う語り方が必要だと思います。

「自由」の視点が希薄に感じた

もう一つは、「自由」という観点が抜け落ちているように思えた点です。

人が自由を語るとき、選択する自由と同時に、その選択を引き受ける責任がセットであることが見過ごされがちです。
いつも悪いもののように語られる「自己責任」は、実は冷たいものではなく、自由の本質だと私は思います。

もしこの自己責任の考え方を否定してしまえば、「誰かが決めた正しさ」に従って生きるしかなくなってしまいます。
それは、人権が形だけになった、管理された社会です。

自己責任と人権は、本当は矛盾しない

自由に生きたいなら、自分の選択には責任を持つべきです。
そしてそれは、自分だけの話ではありません。
他人にも自由があることを認めること──それが「自由を選ぶ責任」であり、すなわち人権だと思います。

差別を訴える人がいて、それに違和感を示す人がいても、どちらも「語る自由」を持っていい。
そして、どちらの声にも耳を傾けることが大事なのではないでしょうか。

「こっちは善で、あっちは悪」と決めつけてしまえば、どちらの自由も失われてしまいます。

人を裁く正義ではなく、人を尊重する自由を

差別や偏見がない社会を目指すことには、私も賛成です。
でも、「この正しさに従え」という語りには、違和感を覚えます。

どんなに論理的に正しくても、「誰かを裁く語り」ではなく、「人の選択や葛藤を理解しようとする語り」に、人は耳を傾けたいものだと思います。

そのほうが、ずっと自由だからです。

おわりに

論として納得できることと、心から共感できることは、必ずしも同じではないのかもしれません。
「通俗道徳が差別を生む」という話は、そのことを改めて教えてくれました。

私はこれからも、「正しさ」よりも「自由」を大切にしながら、いろんな声に「そうなんだ」と応じていきたいと思います。

通俗道徳にすっかりやられてる人間としてね。

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