外圧が変えた日本の道|ペリー来航から太平洋戦争まで

知らんけど

8月15日は、日本にとって戦争と平和を考える特別な日です。
今年は視点を少し長くとり、ペリー来航から太平洋戦争までの道のりを振り返ってみます。
日本はもともと、国内では武力争いをしても、国外への大規模な武力行使はほとんどありませんでした。しかし19世紀半ば、黒船がやってきたことで、国の進む道は大きく変わります。
その後の近代化、列強入り、国際社会との摩擦、そして戦争へ至る流れを、もう一度、時系列でたどります。

ペリー来航と日本の開国

1853年、アメリカ合衆国のペリー提督が軍艦を率いて浦賀に来航しました。目的は捕鯨船や貿易船の補給港として日本の港を開くことでした。
このときの交渉は、軍艦の存在そのものが圧力となる「砲艦外交」でした。結果として翌年の日米和親条約で下田と函館が開港し、日本は鎖国を終えました。
これが、日本が本格的に国際社会へと組み込まれるきっかけになります。

近代化と富国強兵の道

開国後、日本は欧米列強に対抗するために近代化を急ぎました。明治維新を経て、中央集権体制と近代的な軍隊・産業基盤を整えます。
この時代、日本は防衛を第一目的としつつも、国力を海外でも示す方向へと進みます。外圧に対応するには、軍事力を背景とした存在感が必要と考えられたためです。

日清戦争での勝利

1894年、朝鮮半島の支配を巡って清国と戦争になりました。これが日清戦争です。日本は近代化した陸海軍を活かして勝利し、下関条約で台湾や澎湖諸島を獲得しました。
この勝利は、日本がアジアの強国を破った初めての事例であり、国際社会から列強の一員として見られる大きな契機となりました。

日露戦争での地位向上

1904年、日本はロシアと朝鮮・満州を巡って衝突します。日露戦争では旅順攻囲戦、日本海海戦などで勝利し、ポーツマス条約で南樺太や満州の一部権益を得ました。
この勝利により、日本はアジアで唯一、欧米列強と肩を並べる国家として国際的な評価を高めました。

第一次世界大戦と戦勝国入り

1914年、第一次世界大戦が始まると、日英同盟に基づいて日本は連合国側で参戦しました。ドイツ領の南洋諸島や山東半島を占領し、戦後は国際連盟の常任理事国となります。
これにより、日本は名実ともに列強の一角として国際舞台に立つことになりました。

満州事変と国際協調からの離脱

しかし、1920年代後半から1930年代にかけて、日本は国際協調路線と列強間の力の均衡に不満を募らせます。ワシントン海軍軍縮条約での海軍比率の制限や、人種差別的な移民制限などが背景にありました。
1931年、関東軍は柳条湖事件を口実に中国東北部で武力行動を開始します。これが満州事変です。政府の事前許可なしで始まったこの行動は、国際社会から侵略とみなされ、日本はやがて国際連盟を脱退します。
この出来事は、日本が外圧によって加わった国際ルールから、自ら離れていく大きな転換点となりました。

国際的孤立の深まり

満州事変後、日本は国際連盟からの批判に直面しました。1933年、国際連盟はリットン調査団の報告書を採択し、日本の行動を侵略とみなします。これに抗議して、日本は国際連盟を脱退しました。
この脱退は、日本が国際協調の枠組みから距離を置き、自らの行動を国際社会に縛られずに進める方向へ舵を切ったことを意味します。同時に、外交的な孤立が進み、経済的にも欧米との摩擦が深まりました。

軍部の発言力拡大

1930年代半ば、日本では軍部の政治への影響力が強まります。1936年の二・二六事件は陸軍内部の青年将校によるクーデター未遂でしたが、この事件をきっかけに、軍部は政府人事に対して実質的な拒否権を持つようになります。
同年に復活した軍部大臣現役武官制により、陸海軍が内閣の成立や維持を左右できる体制が固まりました。これにより、軍の意向に逆らう政治はますます難しくなりました。

中国との全面戦争へ

1937年、北京郊外の盧溝橋での小規模な衝突をきっかけに、日中戦争が始まります。当初は局地戦として処理されるはずが、戦線は拡大し、中国全土との長期戦へと移行しました。
戦争の長期化は日本経済や国民生活に大きな負担を与え、資源の確保が急務となります。この時期から南方の資源地帯への関心が高まっていきます。

欧米との対立と経済制裁

1940年代に入ると、日本はドイツ・イタリアと三国同盟を結びます。これは欧米列強、特にアメリカとの対立を深めることになりました。
アメリカは日本への石油輸出を停止し、鉄鋼やゴムなど戦略物資の供給も制限します。資源不足は日本にとって死活問題であり、外交交渉と並行して南方資源地帯への進出計画が具体化していきました。

太平洋戦争の開戦

資源確保と欧米の包囲網からの脱出を目的に、日本は1941年12月8日、真珠湾攻撃を行い、アメリカ・イギリスなどとの戦争に突入します。これが太平洋戦争の始まりです。
当初はフィリピンやマレー半島などで連勝しましたが、戦局は次第に不利となり、最終的に1945年8月の敗戦を迎えます。

外圧が変えた日本の道

日本は長い間、国内での権力争いはあっても、国外へ武力で現状変更を及ぼすことはほとんどありませんでした。ところが、19世紀半ばのペリー来航によって状況は一変します。
軍艦を背景にした外交は、「国際社会では力が物を言う」という現実を突きつけました。その後、日本は近代化と富国強兵に邁進し、日清・日露戦争で列強の仲間入りを果たします。

しかし、第一次世界大戦後の国際体制では、日本は必ずしも対等に扱われず、軍縮条約や移民制限などへの不満が蓄積していきました。満州事変は、そうした不満が爆発した出来事でもありました。
そこから先は国際協調からの離脱、軍部の発言力拡大、中国との全面戦争、そして太平洋戦争へと進みます。

外圧がきっかけで始まった近代化の道は、やがて国外不介入という伝統を捨て、国際政治の力のゲームに深く巻き込まれていきました。その結果としての太平洋戦争は、日本が外圧の中で選び取った道の一つの帰結だったとも言えます。

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