なぜ日本のリベラルは多数派になれないのか──自由と平等の優先順位の罠

知らんけど

自由の三分類とその成り立ち

自由には大きく三つの段階があります。
まず土台になるのが「消極的自由」です。これは権力や他者から干渉されない状態を指します。たとえば、検閲されずに発言できる、行動を制限されない、といったものです。
次に「積極的自由」があります。これは自分の意思で選択や決定ができることです。教育を受けて職業を選べる、政治に参加できるといった状態がこれにあたります。
そしてこの二つを土台にして成り立つのが「社会的自由」です。これはすべての人が実質的に自由を行使できる条件が社会の中で整っている状態を意味します。貧困や差別をなくし、必要な福祉やインフラを整えることがその一例です。本来、社会的自由は消極的自由と積極的自由がしっかり守られた上に築かれるものです。

欧米型リベラルと日本型リベラルの違い

欧米型のリベラルは、最終的な目的を「個人が自己決定できる自由の最大化」に置いています。平等はそのための手段であり、自由が第一義にあります。国家が介入する範囲も政党や国によって幅がありますが、基本的には自由を守ることが軸にあります。
一方、日本型のリベラルは、最終目標が格差や不平等の解消に置かれる傾向が強く、自由はその結果として付いてくるものとされやすいです。国家による制度改革や再分配、規制には積極的で、格差が広がることに対する警戒感が非常に強いのが特徴です。
この違いは優先順位の差に現れます。欧米型では「自由のための平等」、日本型では「平等のための自由」という順番になっているのです。

日本型リベラルの危うさ

日本型リベラルの最大の問題は、社会的自由の成り立ちへの理解が浅くなりがちなことです。社会的自由をほぼ平等と同じ意味で捉え、消極的自由や積極的自由といった土台部分への意識が弱いのです。そのため、自由を「国家が与えるもの」として考えてしまう傾向があります。
また、平等の達成を優先するあまり、全体主義的な方向へ傾く危険があります。平等のためならば自由を制限してもよいという発想が生まれやすく、規制や義務化が加速し、異論を排除する空気が強まるのです。多様性を掲げながら、その枠に入らない意見を差別や時代遅れとみなしてしまうこともあり、結果として価値観の一枚岩化が進むリスクがあります。

日本のリベラルが勝てない理由の可能性

こうした構造は、国民に理論として理解されていなくても、感覚的には伝わっています。多くの人は、リベラルの政策から「なんとなく窮屈になりそう」という空気を感じ取っています。再分配や権利保障のための規制や義務化が多く、自由を奪われるような印象を持たれやすいのです。
さらに、正義や平等を強く打ち出す姿勢が「自分の生き方まで管理されそう」という反発を呼びます。自由を守るための明確な説明やメッセージが乏しく、その軽視が透けて見えるとき、無党派層や中間層は投票をためらいます。

お花畑と呼ばれる理由と、自律という視点

日本型リベラルが「お花畑」と批判されるのは、平等の先にあるはずの自律を見据えていないからです。本来、社会的自由は、個人が自分の自由を自ら管理し、使いこなす力──つまり自律を備えてこそ成り立ちます。制度や権利を整えることは大切ですが、それだけでは自律は育ちません。
平等を優先しすぎる構造は、制度への依存を強め、想定外の事態に自ら対応する力を弱めます。その結果、理想像はあっても現実的な運営の耐性がなく、「お花畑」と揶揄されやすくなるのです。
この構造から抜け出すには、平等と自由の間にある自律をもう一度中心に据え直し、自由のために平等を整えるという発想へ立ち戻る必要があります。そうしない限り、日本のリベラルが多数派になる日は遠いままでしょう。

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