正論だけが飛び交うリング──プロレス民主主義のヒールたち

知らんけど

選択的夫婦別姓をめぐる議論を見ていて、ふと、これはもうプロレス民主主義の興行なんじゃないか、と思うことがあります。

派手な技を繰り出しているように見えて、実は裏で手を取り合っている。あるいは、正義の仮面をつけたまま、誰も救わない「正論の応酬」に夢中になっている。そんな構図が見えている気がするのです。

このテーマの核心はとてもシンプルだと思います。社会のアイデンティティを支えるひとりひとりの個人のアイデンティティをどこまで尊重するか?そこの線引きの問題です。

でも、現実の国会では、なぜかその議論が空回りし続けています。理念と現実の溝が、なかなか埋まりません。

正論依存という壁

立憲民主党は「正論」好きです。人権、平等、理念、整合性。すべてが理想主義的で、間違ってはいないと思います。

でも、その理想の高さが、いま困っている人の救済に結びつかないとしたら──。それはちょっと、立ち止まって考えてみる必要があるかもしれません。

たとえば、維新が出した「旧姓を通称として戸籍に記載できる」法案について、立憲は反対の立場をとっています。

このまま事態が動かなければ、また審議が先延ばしになることは明白です。 ですが、立憲が維新の案の賛成に回ればその法案は可決されます。

「選択的夫婦別姓の制度が整わない限り、本質的な解決にはならない」 確かにそうなのかもしれません。でも、今まさに日常の手続きで困っている人たちがいるというのが彼らの立場です。

「今すぐにでも助けが必要な人たち」を、「その時が来るまで待ってください」と言ってしまっていいのでしょうか。 それとも、実はやはり、これまでの通称使用の拡大によって、困っている人などもうほとんどいないのでしょうか。

いずれにしても、国会で繰り広げられているのは、実態のない政治。エンタメ化された中身のないバトルになっているように思えてなりません。

興行としての民主主義?

もし今の国会が「プロレスの興行」だとしたら──そんな見立ても浮かんできます。

  • 維新の会は、ギラついた新興勢力のような存在。時に過激な言動もありますが、提案はなかなか実務的です。
  • 自民党は、試合の流れをうまくコントロールするレフェリー役。表向きは公平を装いながら、舞台裏では采配を振るっています。
  • そして立憲民主党は…もしかしたら、強敵たちに行く手を阻まれる正義のベビーフェイス。しかしそれは、裏で仕組まれた台本通りのリングパフォーマンスを演じるだけの存在なのかもしれません。

「自由と平等を守る」と掲げながら、現実には“誰も助けられていない”という状況。正しさだけが飛び交って、肝心の「救うこと」が置き去りになっていないでしょうか。

段階的に進めるという選択

たしかに、維新案がすべての問題を解決するわけではないのかもしれません。でも、「今、助けられる人を一人でも救いたい」という視点で見れば、それは大きな一歩になるはずです。

まずは旧姓使用を制度化し、実装して、そのうえで、更なる必要性が明らかになれば、より本質的な制度設計(選択的夫婦別姓)へと進んでいく。そうした「段階的なアプローチ」は、けっして妥協ではなく、むしろ現実に寄り添う方法だと思います。

泥臭くても、地味でも。格闘エンターテインメントが盛り上がらなくても、そういう現実的な積み重ねの中にこそ、ほんとうの政治の役割があるのではないでしょうか。

正しさだけでは届かないこと

理想を語ることは、とても大事なことです。でも、それだけでは届かない現実があるのも事実です。

いま、政治に求められているのは、「正しさを語ること」ではなく、「誰かを救える正しさ」を形にすることではないのでしょうか。

正義の仮面をかぶってカッコばかりをつけていないで、泥をかぶってでも、目の前の困りごとに向き合ってみたらどうなのでしょうか。

もちろん、制度で全ての人を救えるわけではありません。 だからと言って、人を救うのはもうあきらめて、プロレスでも観てストレス解消してくださいなとでも言うのでしょうか。

もし、そうなのだとしたら、それはそれでリアリティですけどね。

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