国家主権の名を借りた越境干渉に、「主権を守ってください」と言ってはいけないのか?

知らんけど

はじめに:国家主権という“最後の防波堤”

国家主権とは、本来、他国による干渉を防ぎ、国内の政治・制度・社会の安定を守るために存在するものです。国際社会においては「内政不干渉」「相互尊重」が原則であり、これを超える行為は国際的な批判の対象となります。 しかし近年、この「主権」という概念が一部の国によって都合よく使われている現実があります。自国に対する批判や制裁を「内政干渉だ」と退ける一方で、自らは他国の言論空間に影響を及ぼす行為を行っているのです。この記事では、こうした“越境的主権の行使”にどう向き合うべきかを考えてみたいと思います

越境する“主権の名のもとに”:静かな侵食の構図

たとえば中国は、国外にいる中国系市民や留学生に対して、政治的な発言や行動の監視を行っているとされます。カナダやオーストラリアでは、在外中国公館の職員が「違法な圧力行為」を行っていたとして追放された事例もあります。

またロシアは、ウクライナ東部の親ロシア派住民の「保護」を名目に、自国民の国外における動向を軍事行動に結びつける構図を取りました。これらはすべて「主権の行使」を口実にしていますが、結果として他国の主権空間に直接的な影響を及ぼす行為となっています。

自由を守るための“主権”が、自由を壊す道具になっていないか?

国家主権とは、自国の制度と文化を守る一方で、他国の主権を侵さないことを前提としています。ところが、こうした越境的な言論干渉は、主権の基本理念そのものを揺るがすものです。

たとえば、日本に住む中国系市民が、中国本国の政治体制に関する発言をためらうとしたら、それは日本という国家の中で保証されるべき「表現の自由」が外部から侵されていることを意味します。この状況を放置することは、日本の主権空間の無力化につながりかねません。

プロパガンダ装置としての“主権”:声の逆輸入構造

沈黙を強いられた国外の市民の姿を「同調」の証として本国に輸出し、あたかも“国際社会でも支持されている”かのように演出する。このような情報戦の構造は、単なるプロパガンダではなく、制度的・文化的な浸食の一部です。

これは、自由主義国家の内部にある言論空間をじわじわと歪める「拡張型主権行使」と言ってもよいでしょう。その影響を見過ごせば、気づかないうちに“語れない空気”が社会に広がっていく恐れがあります。

対抗の論点:「主権を守れ」は自由を守るためにこそ使うべき

こうした事態に対し、各国は「わが国の主権を侵害する行為である」と明確に主張すべきです。これは相手国への内政干渉ではなく、自国の空間で暮らす人々の自由を守るための正当な措置です。

実際、カナダやオーストラリア、EU諸国では、越境的な言論圧力に対して外交的対応や法的整備が進められつつあります。日本もまた、自国内での表現の自由や安全が外部から侵されることに対して、もっと毅然とした態度を取るべきではないでしょうか。

おわりに:国家主権を、もう一度“自由の道具”として

国家主権は、「国を閉ざすため」の道具ではなく、「中にいる人々を守るため」の原則であるべきです。もし、それが他国による越境的な情報操作や言論弾圧の正当化に使われているならば、私たちはその主張に対し、「ではこちらの主権はどう守ってくれるのか?」と問い返さなければなりません。

自由を守るためにこそ、主権を使う。そのために、各国が連携し、「越境的な主権行使」に対する共通の基準と対応策を打ち出す時期に来ているのではないでしょうか。

情報操作と核の脅威を組み合わせれば、世界は沈黙させられてしまう。
けれどその構造に穴をあける方法があるとしたら、それは「自由を守る主権の再定義」なのではないでしょうか。

主権という言葉を、もう一度“声を守る盾”として取り戻すこと。
その一歩が、プロパガンダに抗する語りの余地をつくり、
語る自由を増やすことが、戦争の正当化を難しくするはずです。

声が広がれば、戦争はやがて立ちゆかなくなる──
そう信じるところから、主権の意味をもう一度考え直してみたいと思います。

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