理想を語ることが、どこか気恥ずかしく感じられる時代になってきました。声の大きな「正義」は疑われ、静かな「現実」は希望を持たない。そんな分断と閉塞感が漂う今だからこそ、私は「ウルトラ理想主義」というひとつの姿勢を提唱しています。
理想を語るからには、それを現実に埋め込むこと。抽象的なスローガンではなく、日々の制度や構造にじんわりと染み込んでいくような形で実装すること。口当たりのよい「理念」ではなく、自分の身体感覚に合った「思想」として、現実に接続する理想を追い求めたいのです。
ウルトラ理想主義とは、「現実に着地する理想主義」のことです。
第1章:理想を語ることの難しさ
いま、「理想を語る」という行為は、しばしば冷ややかな目で見られます。「浮ついている」「非現実的」「ポエムっぽい」と切り捨てられたり、「正義を振りかざすエリート意識だ」と誤解されたりもします。確かに、SNSを中心に広がる言葉の世界では、「理想」という言葉が誰かを攻撃するための免罪符のように使われてしまった場面も多くありました。
でも、もし理想を語らなくなったら、私たちの社会はどこへ向かうのでしょうか。
「現実的であること」が重視されるのはもちろん大切なことですが、それが行き過ぎると、現実に“埋没”してしまうような息苦しさを感じることがあります。未来への指針が見えなくなっているような空気の中で、少しでも理想の灯をともし続けたいと感じる人も、きっと少なくないはずです。
だから私は、理想を語ることをやめたくありません。ただし、それが「空中戦」のままで終わってしまわないように、ちゃんと地に足をつけること。理念は、現実に根ざしてこそ力を持つ。だからこそ、こう言いたいのです。「理想を語るなら、現実に埋め込もう」。
第2章:理想を「埋め込む」とはどういうことか
では、「理想を現実に埋め込む」とは、具体的にどういうことかですが、ここで私は、理想をただ掲げるのではなく、「構造として組み込む」という視点が重要だと考えています。
たとえば、「誰もが安心して暮らせる社会をつくろう」という理想は、とても美しいです。でも、それを実現するには、具体的な制度や仕組みが必要です。税制や教育制度、働き方のルール、安全保障の枠組み、エネルギーの供給体制——そういった“土台”がなければ、理想はどこまでも抽象のまま漂ってしまいます。
私にとって、理想は完成された設計図というより、現場で使える道具のようなものです。理想の核を保ちながら、現実の構造や日常の感覚にそっとなじませていくこと。それが、「理念を社会に埋め込む」ということなのです。
これを私は、思想の「カレーライス化」と呼んでいます。外から来たスパイスを、日本の白いごはんと、自分の舌に合うように工夫し、そっとなじませて、おいしくする。そうしたら、それは国民食にだってなる。もちろん、理想は他者から与えられるものばかりではありません。自分自身が考え抜いた理念もまた、そうして“咀嚼”され、現実に馴染ませていくことで、生きた思想になっていくのだと思います。それは、日本人が得意としてきた“咀嚼”の知恵です。
第3章:ふわふわした理念と、肌に触れる思想
「理想はエアリズムのようではダメ。」なのだと思います。多くの理念は“ふわふわしていて軽やかだけれど、肌触りがない”という状態にあります。抽象的で耳あたりのよい言葉が並び、心を打つようでいて、私たちの暮らしや制度にどうつながるのかが見えにくい。これでは、理念は「着ているつもりだけれど、実は裸に近い」ものになってしまいます。
たとえば、エネルギー政策について語るとき、「再エネはクリーンで未来的だから良い」と言うのは簡単です。でも、実際の発電コストや安定供給、送電インフラ、家庭の電気代など、生活の現場に触れていなければ、それは単なるスローガンになってしまいます。
私は「思想は肌に触れるリアリズム」が必要だと考えています。季節や体質に合わせて、現実に根ざした肌触りのいい実感があれば、理想は現実とともに歩き出します。
思想とは、現実に触れて初めて、その重みと温度を持ちます。そして、それが私たちの身体に合ったものであればあるほど、社会全体にも無理なく広がっていくはずです。ウルトラ理想主義とは、そんな“肌触りの良いインナーウエアのような感覚”を大切にする立場でもあります。
第4章:咀嚼の思想としての日本的リアリズム
日本には、他者の文化や理念を拒絶するのではなく、「うまく取り入れて自分たちのものにする」という特有の知恵があります。それは単なる模倣ではなく、咀嚼と再構成のプロセスです。仏教が神道と並立し、洋食が家庭の食卓になじみ、海外の思想が「和魂洋才」として受け入れられてきた歴史があります。
この「自分の舌に合うように整える」という態度は、思想の分野においても大切な視点だと思うのです。理念をそのまま輸入するのではなく、文脈に即して再設計し、現実の中で機能する形へと“翻訳”する。それが、私が勝手に名づけているウルトラ理想主義という考え方の基盤にある態度です。
今の世界は、分断と対立に疲れ果てています。白か黒か、敵か味方か。そんな構図では、人は安心して理想を語ることも、耳を傾けることもできません。だからこそ、対立を超えて「いただく」「馴染ませる」「活かす」という日本的リアリズムの発想が、分断を和らげる鍵になるのではないかと考えています。
ウルトラ理想主義は、理念を捨てないために、現実と丁寧に向き合います。そして他者の理念に対しても、ただ批判したり受け入れたりするのではなく、咀嚼して、自分の言葉で言い直してみる。それは、日本人が得意としてきた知的な生活技術であり、今こそ世界に必要な態度かもしれません。
結びにかえて
ウルトラ理想主義は、思想というよりも「姿勢」です。 理想を捨てず、でも現実からも目をそらさない。思想を振りかざすのではなく、構造の中に馴染ませ、制度の中に落とし込む。強く語るのではなく、静かに咀嚼し、相手に届く形にする。そんな態度のことを、私はそう呼んでいます。
カレーライスのように馴染み深く、エアリズムのようにふわふわしすぎず、ちょうどよい温度で身体にフィットするような理想。それが、私の考える“ウルトラ理想主義”の姿です。
もしかするとそれは、誰もが少しずつ実践している、無名の知としての「思想」なのかもしれません。私はそのあり方に名前を与え、あらためてそう呼んでいるだけなのかもしれませんね。
「ウルトラ理想主義」シリーズ記事
- 本稿:今、なぜウルトラ理想主義なのか?──理想を現実に埋め込むという姿勢
- 第2回:なぜ社会民主主義は届かないのか?──ウルトラ理想主義というもう一つの姿勢
- 第3回:なぜウルトラ理想主義は保守ではないのか?──態度と構造の間にあるもの



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