はじめに:問いとしての「姓」
結婚すれば、夫婦は原則どちらかの姓に統一する。日本では長く当たり前とされてきたこの制度が、今、見直しを迫られています。特にビジネスや研究の場では、名前の一貫性が信用と結びつく場面が多く、「旧姓を使いたい」という声が高まっています。
通称使用の制度はそのニーズに応える形で整備されつつあり、社会はある種の柔軟性を持ちはじめました。しかし、そこからさらに一歩進んで「選択的夫婦別姓」──法的に別の姓を選べる制度──の導入となるとどうなのでしょう?
この問いは、単に「名前をどうするか」ではなく、もっと大きな何かに関わっているように思います。
それは、個人のアイデンティティと、社会のアイデンティティのどちらを優先するのか?という少し面倒な問いです。
通称使用の拡大は、個人の自由です
旧姓を通称として使える制度が整えば、本人の実務的な不便は大きく解消されます。名刺やメール、行政手続きにおいても、旧姓の併記や使用が進めば、多くの人にとっては十分な自由が確保されるでしょう。
このような通称使用の制度整備は、個人の自由の最大化という意味で、社会として歓迎されるべき変化です。制度の根幹を揺るがすことなく、個人の選択を拡張する手段だからです。
しかし、選択的夫婦別姓は違います。 それは、「選べるようにする」ことを通して、社会全体の構造──とりわけ、姓という制度が担ってきた社会的役割を見直すことにつながるからです。
姓は「個人のもの」であると同時に、「社会のもの」でもある?
姓はたしかに、個人のアイデンティティやキャリアと結びつく大切なラベルです。 しかし同時に、姓とは「この人はどの家族・共同体に属しているか」を表す、社会的な記号でもありました。
- 戸籍制度や行政サービスにおける整理の単位
- 教育・医療・保険などにおける家族単位の識別
- 結婚・相続・扶養といった制度的文脈での意味づけ
こうした制度の前提として、「家族は同じ姓を名乗る」という社会的了解がありました。選択的夫婦別姓は、この前提を制度的に手放すという意味を持ちます。
社会的アイデンティティは、共有の“無形資産”である?
私たちは気づかぬうちに、社会の中で共有された前提や価値観に支えられて生きています。 たとえば──
- 共同体の中で育まれる信頼
- 調和を重んじる姿勢
- 公共の利益を優先する感覚
- 正しさを貫こうとする精神
こうした価値は、日本社会が長年にわたり積み上げてきた“無形の資産”です。目に見えなくても、制度・文化・経済の土台として作用してきました。
制度の根幹を成す家族法の改正は、これらの資産を取り崩しかねず、一度揺らげば、元に戻すのは容易ではありません。正は、これらの資産を取り崩しかねず、一度揺らげば、元に戻すのは容易ではありません。
「選べる制度」は、無害とは限らない?
「別姓にするかどうかは個人の自由。選択肢を増やすだけだから、誰にも迷惑をかけない」 そう聞くと、もっともに思えます。しかし、選べる制度が導入されることで、社会の前提が変わることは避けられません。
- 子どもの姓をどうするか?
- 家族とは何か?
- 共に生きる単位は、法的につながる必要があるのか?
ややこしそうな問いが新たに生まれ、今ある制度の“空気”が変わっていく。 それが悪いこととは限りませんが、それが何を壊すのか、それとも何も失わないのか──そこを十分に見極める必要があると思うのです。
問いのあいだに立つ
みんなのものを、みんなで変えられる自由があること。それはとても大切です。
でも、同じように──変えたくない自由、守りたい自由も、確かにあるはずです。
社会的なアイデンティティ──それは、正しさへのこだわりだったり、共に生きる意識だったり。
時には、“空気”のように当たり前にそこにあった、調和の感覚かもしれません。
それを失うことを、誰かが「つまらない感情論だ」とか、「別に何も壊さなくない?」と軽く流すなら──そうなのかもしれません。
ただ、ひとつだけ、確かめておきたいのです。
その感情は──制度の中で、少しずつ育まれてきたもの。
そして、それはたぶん、「愛」と呼ぶような感情だと思うのです。
いずれにしても──
夫婦が姓を分けられる社会へと願う人がいるように、
夫婦が同じ姓でいる社会をと願う人もいます。
一方だけが「不正解」とされるのではなく、問いのあいだに立って、両方の価値観を理解し合うことから始められたらなと、思います。
おわりに:制度を変える前に、守っているものを確認したい
制度は、変えることも、守ることも、どちらも選べます。 けれど、変える前には必ず、「何を守っていたのか?」という問いに一度立ち返ることが大切ではないでしょうか。
姓という制度をめぐる議論は、個人の自由の問題であると同時に、私たちが市民として長く積み重ねてきた“無形の信頼”や“目に見えない秩序”について考えるきっかけでもあります。
姓をどこまで「個人のもの」だと考えるのか? どこから「社会のもの」なのか?
─一度、立ち止まって、個人としての問いと、市民としての問い、その“あいだ”に立ってみる──そこには、そこでしか見えない「意味」が、きっとあるように思います。
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