社会主義化するリベラルの先に、何を描くか

知らんけど

前回の記事では、日本のリベラルがいつの間にか自由主義ではなく、設計主義、そして社会主義的な思想に寄りかかっていることを指摘しました。では、それに代わる「自由主義のかたち」はどこにあるのでしょうか?今回は、ふたりの政治家の姿勢を通して、「次の自由」の輪郭を探ってみたいと思います。

国家がすべて設計してしまう前に

リベラルが「福祉」や「平等」を叫ぶとき、そこにあるのはしばしば、「国家が正義を設計する」という発想です。税を取り、配り、行動を管理し、価値観まで誘導していく。その行き着く先は、「自由の保護」ではなく、「正しさの強制」です。

もちろん、支援が必要な人はいるし、再分配がすべて悪いとは思いません。ただ、社会をまるごと設計し直すようなやり方には、慎重であるべきだと思うのです。自由な社会とは、本来もっと雑多で、不完全で、選択にゆらぎがあるものではないでしょうか。

日本のリベラルは、もともと「自由」の名のもとに出発したはずなのに、気がつけば「設計主義」に傾いてしまっている。まるで、国が責任を持って“正しい社会”をつくらないと人々が不安で仕方がないかのように見えます。

ただ、日本社会にはもともと「空気を読む」「和を尊ぶ」といった、強い集団主義の文化があります。そうした土壌のなかで、設計主義が求められてしまうのも、ある意味で自然な流れだったのかもしれません。

でも、それだけでいいのでしょうか。

河野太郎という「設計しない改革派」

そんな中で、自由主義的な方向性を感じさせる政治家がいます。自民党の河野太郎さんです。

河野さんは、防衛や少子化対策といった「不可避な支出」がある以上、増税も選択肢として考えるべきだと明言しています。同時に、無駄な支出は減らす。社会保障制度も、持続可能な形に見直す必要がある。つまり、「配る前に仕組みを整える」派です。

行政の効率化や情報公開にも熱心で、合理性を徹底する姿勢からは、「自由とは、国がすべてを握らないことだ」という哲学がにじんでいます。

もちろん、増税を口にするのは政治的には不利でしょうし、理屈っぽくて共感されにくい部分もあるかもしれません。さらに言えば、「財務省寄り」と見なされてしまうこともあり、その政策が本当に成長につながるのか、という疑問も残ります。

それでも、リベラルが「配ること」に夢中になっている今だからこそ、こういう冷静な視点には意味があると思うのです。自由とは、誰かが正しさを設計することではなく、自分で考えて選べること。その姿勢を政策の中に持ち込んでいる、数少ない政治家のひとりです。

玉木雄一郎という「共感型リバタリアン」

もうひとり、注目したいのが国民民主党の玉木雄一郎さんです。

玉木さんは、消費税減税や現金給付を「バラマキ」とは捉えません。むしろ、それを「高圧経済」の起爆剤として位置づけています。お金を回して、需要を喚起し、経済を成長させる。その中で税収も増やし、財政も健全にしていく。こうした考え方は、いわば「成長のための分配」です。

これは、「平等のための再分配」とはまったく違うアプローチです。自由と責任を基本に据えながらも、今の日本社会の現実──格差や不安、低成長──にも丁寧に向き合っているように思います。

もちろん、「高圧経済」はまだ日本で実証されたわけではなく、財政的なリスクもゼロではありません。物価上昇や国債依存をどう乗り越えるか、という課題も残っています。それでも、玉木さんの語りには、どこか「弱さに寄り添う自由主義」の雰囲気があります。

人を信じることでしか、自由は始まらない。
彼の語りは、そう訴えているようにも聞こえます。

自由とは、「選べる」ということ

社会主義的リベラルが目指すのは、「正しい社会を上からつくること」です。でも、私たちが本当に求めているのは、「正しさに縛られず、選べる社会」ではないでしょうか。

河野太郎の合理主義も、玉木雄一郎の共感型自由主義も、方法は違えど、共通しているのは「自立した個人を尊重する社会をつくる」という方向性です。

支援を受ける自由、働き方を選ぶ自由、暮らし方を設計する自由。そうした「選択肢のある社会」をつくることこそが、本来のリベラルであり、自由主義なのだと思います。

おわりに──「設計されない自由」を取り戻すために

今の日本では、「自由」が軽く扱われすぎているように感じます。「平等」や「包摂」や「正義」に比べて、自由は自己責任の象徴として嫌われがちです。でも、ほんとうの自由は、誰かを突き放すものではありません。

自由とは、自分で選び、自分で引き受けることです。そして、自分で選べるように、まわりと対話し、環境を整えていくことでもあります。

ただし、「選べる社会」をつくるためには、選ぶための信頼が必要です。日本では、政治への信頼が低く、制度の持続性に対する不安も強い。そうした環境の中で「自由を増やす」と言っても、「それって自己責任で見捨てるってこと?」という反応が返ってくることも少なくありません。

だからこそ、自由を語るなら、「無関心」や「放任」ではないということを示さなければなりません。支えるけれど、管理はしない。手を差し伸べるけれど、決めつけない。そうした文化としての自由を育てるには、時間も対話も、そして信頼も必要です。

河野太郎や玉木雄一郎がそれぞれのやり方で示しているのは、まさにその「設計されない自由」へのアプローチです。

社会をまるごと“救う”のではなく、ひとりひとりが“選べる”社会へ。
私たちの自由は、まだ終わってはいません。

補足

本稿では、日本のリベラルが制度による設計主義に傾きすぎているのではないか、という視点から「自由主義の再評価」を試みました。しかしながら、こうした議論に対してはいくつかの反論が想定されます。以下に、その代表的なものと私なりの応答を記しておきたいと思います。

「自由を制限してでも平等を優先する」という描き方は一面的では?

現代リベラリズムは「自由か平等か」という単純な二項対立ではありません。教育や医療のアクセスを整備することで、自由の“選択肢”を広げようとする思想があることは承知しています。

しかし、私が問題にしたのは、その本来の思想が、日本の制度運用の中で**「自由を広げる」どころか「制度の管理下に置く」方向に流れていないか**という点です。

たとえば、教育や子育て支援を通じて「機会の平等」を掲げながらも、いつの間にか「成果の平等」や「価値観の統一」へと制度が進んでいく。その過程で、個人の選択や判断が制度の“正しさ”に包摂されてしまう。この傾向を、私は「設計主義的社会主義化」と呼んで問題提起しました。

もちろん、「社会主義」という表現がやや強いと感じられる方もいらっしゃると思います。その点は踏まえつつ、しかし「自由の自己決定権」が制度によって徐々に奪われていく構造には、引き続き注意を払いたいと考えています。

福祉や再分配は感情だけでなく、合理的な根拠があるのでは?

データに基づいた政策形成も不可欠です。

ただ、それらの政策が感情的訴求によって必要以上に膨らみやすいという点には注意が必要です。

「困っている人がいるから支援すべきだ」「かわいそうだから政府が救うべきだ」という感情の動員が、制度の設計や優先順位をゆがめてしまうこともあるのです。

本稿では、そうした「感情による設計主義の暴走」への警戒感を込めて、あえて「感情による社会主義化」という表現を使いました。

北欧モデルは本当に参考にならないのか?

北欧の制度をそのまま輸入するような発想には慎重であるべきだという立場から、私は「文化や合意形成の前提が違う」と指摘しました。ただし、「北欧が参考にならない」という主張をしたつもりはありません。

むしろ、日本が学ぶべきは制度そのものではなく、制度を支える文化や政治参加、納得の積み重ねによる合意形成プロセスです。

日本にも高い教育水準や一定の同質性があります。だからこそ、制度だけでなく、信頼のつくり方や「説明する政治」の在り方を丁寧に取り入れることで、より“日本に合った自由主義”を育てる道があると考えています。

自由主義への回帰が抽象的では?

私が考える「自由主義への回帰」とは、個人が自分で選べる環境を整えることです。

そのためには、教育・医療・移動・情報といった「選択肢の土台」が不可欠です。

国家がすべきことは、“結果”を均等にすることではなく、選べるように支えること。つまり、過剰に管理するのではなく、信じて任せる。そのバランスを取ることが、これからの自由主義には求められると思っています。

また、「自由」という価値にも感情は宿ります。それは、自分を信じ、他者を信じ、未来の選択を引き受けるという勇気の感情です。その意味では、「リベラルの感情」も「自由の感情」も、どちらも人間らしいものです。ただ、自由の側は、感情を制度の盾にするのではなく、不確実性を引き受けるという構えとして持ち続けたいと私は思います。

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