主義主張は、ほどほどにしておこう

知らんけど

──「〇〇すべき!」の裏には、だいたい恥ずかしい自分がいるから。

「〇〇すべき!」って、つい言いたくなるとき、ありませんか?
でも、誰かが強い口調で「こうあるべきだ!」と語るのを聞いたとき、ちょっと「ええ?」と感じたことはありませんか?
あるいは、自分がそう語ってしまったあとで、「あら?」っとバツが悪くなったり。

それってなぜかというと──たぶん、言えば言うほど“自画像”がにじむからです。

  • 「自由であるべき!」と叫ぶ人ほど、不自由を抱え込む自分に悩んでいたり
  • 「ちゃんとしろ!」と怒る人ほど、どこかで自分のだらしなさを気にしていたり

主義主張とは、自分の理想像の裏返し。
もっと言えば、「こうありたいのに、できてない自分」の投影の可能性が極めて高い。

ユングのシャドウ──主張は影の自己紹介?

心理学者カール・ユングが提唱した「シャドウ」という概念では、人は自分が認めたくない側面を、無意識に他人に投影するのだと言われます。

  • 自分に足りないもの
  • 受け入れられない未熟さ
  • 本当はやってみたいけど怖いこと

そういったものを、「他人の問題」として語ってしまう。
でも実は、それこそが心の深部からにじみ出た“自己紹介”なのです。

ユングを語るまでもなく、偉そうな人にちょいちょい見かける「天に吐いた唾」現象、ブーメラン現象は正にそれです。
たとえば、「マナーがなってない!」と怒鳴ってる人が一番マナー悪いとか、ね。

そう、これは“思想っぽい話”にも完全に当てはまります。

【事例】思想だって、実はシャドウでできている

◼ 保守は「ブレ倒す自分」が怖い

「日本の伝統を守れ!」「家族制度が壊れる!」といった強い保守言説の裏には、
「自分が揺らいでしまいそうな不安」が見え隠れします。

  • 一貫性が保てない
  • 自分の軸が弱い
  • このままだと何かが壊れてしまいそう

そんな“内なるブレ”を補強するために、外に向かって正論を立てる。
それでも、結局揺らいでしまって天に吐いた唾は脳天を直撃。

◼ リベラルは「差別する自分」が怖い

逆にリベラルは、「人権を!」と叫ぶことで、
自分の中の差別意識にフタをしようとしていることが少なくありません。

  • 本当に誰とでもフラットに接してる?
  • 自分だって、どこかでラベリングしてない?
  • 正義で人を断罪してない?

こうした後ろめたさを「自分はリベラルだ」というラベルを貼ることで洗い流したい。
しかし、残念ながらそれに気づく人がいて、後頭部にブーメランがぶっ刺さる。

強い語りは、語る人の“痛み”でもある

言葉には「力」があります。
でも、力のこもった言葉はときに、「痛みの声」でもあります。
そしてその痛みを、語り手自身がわかっていないと、なんだかおかしなことになってしまう。

「こうあるべき!」と叫ぶことは、正しさの表明であると同時に、
「自分はまだこうなれていない」という、切実な願いの裏返しでもあるようです。

これ、どうすればいいと思います?

だからといって、主張すること自体をやめることもできないでしょう。
じゃあ、それってどうすんの?

たぶん案外答えは簡単です。
自分の主張が、自分のカッコ悪い部分の大発表だと気がつきさえすればいい。

そうしたらきっと語りが自ずと変わります。

たとえば、

「もっと自立すべきなんだよ!……なんつってね」
「人はもっと優しくあるべきだと思う!……知らんけど」

こんなふうに、私たちの主張は深いバランス感覚を持ってやわらかく語りだすはずです。

主張は「自分のため」に語るということ

主義主張って、ほんとは“誰かを正す”ためじゃなく、
“自分を知る”ためのものなんだと思うんです。

「べき論」で他人を裁くのはヤバイくらい恥ずかしい。
その前に、「自分はなぜこう言いたいのか?」を問いなおしてみて。

そうやって、世の中の暑苦しさは少しクールダウンされるべきなのである!
知らんけど。

コメント