平和は“理念”ではなく“構え”にあらわれます
「平和」を語るとき、私たちはつい“何を言っているか”に注目しがちです。
戦争反対か、抑止力容認か──そうした立場の違いに焦点が集まります。
けれども、本当に大事なのは「どう語るか」ではないでしょうか。
平和とは、理念やスローガンだけで成立するものではなく、語るときの構えそのものに宿るのかもしれません。
今回は、思想的には対照的な二人──井上達夫さんと竹田恒泰さんの語り方に注目しながら、
「語りの構えとしての平和主義」について考えてみたいと思います。
井上達夫:相手の論理を“内在的に”読む構え
井上達夫さんの語りには、「相手の立場に内側から入り込む」姿勢が一貫して見られます。
- 「あなたの立場に立っても、これは矛盾していませんか?」
- 「私はこの点ではあなたと同じ価値を共有していると思いますよ」
といった語り口には、対立よりも対話の可能性を開こうとする意思が感じられます。
井上さんは、相手の価値観を一度肯定しながら、そこにある論理的な筋道を問うていきます。
批判はあくまで構造に向けられ、人格には及びません。
このような語りには、厳しいのに、関係を断たない構えが感じられます。
冷静すぎるほど冷静なのに、語りの空間を壊さないという、不思議な平和主義だといえるでしょう。
井上さんの語りは、しばしば「怖い」「冷たい」と評されることがあります。
それは、感情に訴えることなく、あくまで論理と構造で語るからです。
けれどもその冷たさの裏には、相手の立場に真正面から向き合おうとする誠実さがあります。
井上さんはリベラルでありながら、改憲の必要性を説いたり、保守思想に込められた国家観や共同体意識にも真摯に耳を傾けます。
たとえば、「自虐史観批判」に込められた“誇りある歴史観”への欲求に理解を示しつつ、
同時に、それが単なるアメリカ追従の形で語られることへの違和感も丁寧に指摘します。
自分の立場を絶対化せず、相手の前提の中に踏み込んで、その論理の強度と限界を問う。
その語りは、時に激しく、静かで厳しく、しかし壊れずに残る対話の空間をつくり出しています。
竹田恒泰:語りは“煽って”いるのに、なぜか場が壊れない
一方で、竹田恒泰さんの語りは、まったく異なるスタイルをとっています。
冗談や皮肉、比喩を交えながら、時に煽るような語り方をします。
- 「だったら憲法ちゃんと読んでくださいよ」
- 「それ、戦後レジームの残滓ですね(笑)」
こうした語りは強い言葉を含んでいますが、不思議と場がピリつきません。
むしろ観客を巻き込みながら、“笑って終われる”余地を残しています。
これは、竹田さんが“論客”というより“講談師”のような構えをとっているからかもしれません。
言葉の鋭さよりも、「場の流れ」や「間合い」の設計に重きを置いている印象です。
主張ははっきりしていても、相手を完全に封じ込めず、回復の余地を残している。
この構えもまた、一つの平和的語り方だと感じます。
さらに注目すべきなのは、竹田さんが自ら“おもしろオジサン”という立場を引き受けている点です。
いくら強い言葉を投げても、それが“笑わせるための芸”として差し出されることで、場の空気が和らぎます。
これは、「笑われるリスク」ではなく「笑わせる技術」として成立しているのがポイントです。
自分の語りの立ち位置をあらかじめ演出し、
聴き手に“これは楽しんで聞いていい語りだ”と思わせる。
そのような構えがあるからこそ、主張が鋭くても場が壊れにくいのです。
構えは違っても、“語りで構造を問う”点で重なり合う
また、井上さんと竹田さんの語りには、もうひとつ重要な共通点があります。
それは、どちらも相手の立場を深く理解したうえで語っているという点です。
井上さんはリベラルでありながら、「保守たるものこうあるべきだ」という理屈まで自ら語り出します。
竹田さんも、「まんまん万が一、敵国が攻めてきたらどうしますか?」という繰り返しの問いかけを通して、
左派の主張が抱える想定の曖昧さや構造的な弱さを、ユーモアを交えながら浮かび上がらせていきます。
つまり二人とも、ただ意見をぶつけているのではなく、語りを通じて“構造を照らす”ことをしている。
それが、スタイルの違いを超えて、どちらの語りにも“壊れない対話”が宿っている理由なのだと思います。



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